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2012年02月26日

「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・3

こんばんは。
島は、今日も天気悪いです。まるで、彼女達の叫び声が一緒になっているかのように聞こえます。
証言の文中に両親を呼び「オッパー」、「オンマー」と泣く彼女達の姿が、なぜか浮かぶようなきがした。
「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・3

今日は、与那国の海で米軍に襲撃された朝鮮人「従軍慰安婦」についての最終になります。皆さんは、どう感じましたか?島の人達も知らなかったとびっくりする人が多かった。今回、ブログに書くことによって大勢の方に、この事を知って頂ければ、まだ与那国のガマで眠っている??彼女達も、少しは浮かばれるのではないでしょうか?


 「オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦     福地曠昭氏」
上記より転載しました。

 証言     池村恒正(当時軍医)    宮古平良市

 数年前、私は宮古平良市の池村歯科病院を訪ねた。池村さんから53人の慰安婦を台湾から連れて来た話しを伺った。
昭和19年の末頃、鏡原小学校にある陸軍病院にマラリヤ患者があふれ、医薬品等が不足していた。当時、31歳の歯科医だった池村恒正さんは台北帝大の医学部にマラリアの薬を取りに行くよう軍医部から命令された。小型の機帆船が用意され、無事、台北に着き、医療品等を受け取りキールン港を出港した。機帆船で大型の木造船には朝鮮人慰安婦53人が乗船していたという。
 
 この慰安婦たちには渡辺大尉とシモガキ(下垣?)曹長がついていた。野原越にある陸軍司令部から、慰安婦を台湾から連れてくるように派遣された二人であった。
 この機帆船は暁部隊の船舶で、キールンを出た翌日の夜明け前に与那国へ着いた。そこには船をつける岸壁がないので、霧が晴れてから入港しようと、港外に船を停泊させた。久部良沖である。これが悲劇を招いた。空が白みかける朝5時ごろ、北の方から飛行機が2機飛来してきた。翼に赤いマークが見られるので友軍機が防衛に来たと思い、甲板に出て感激していた。

 慰安婦たちもハンカチを振って飛行機に感謝の気持ちを示した。北西の方向に来ると友軍機でないことがわかった。飛行機は急降下して機銃掃射で10数名の慰安婦が倒れた。米軍機は3~4回も旋回して銃撃してきた。
 甲板の上には逃げおくれた女たちが泣きわめいている。池村さんは水タンクを背景にして小さくうずくまっていた。ふるえている池村さんは水タンクを背景にして小さくうずくまっていた。ふるえている池村さんの右側に二人、左側には一人の朝鮮人女性が、ガタガタふるえ身動きができない。三回目の掃射のとき、破片が池村さんの上衣のボタンを砕き左手にいた女性の胸部を貫いた。ふりむく間もないあっという間のできごとであった。

機関部に弾が命中したらしく、もうもうと黒煙が吹き出た。万事休す!このまま船上にいては沈められてしまう。海に飛び込む以外はない。甲板へかけ出しシモガキ曹長が、陣頭指揮をとって甲板からイカダを海へ放り投げた。

 泣き叫ぶ女たちを次々と海へ突き落とし、「イカダにすがれ」と命じた。池村さんも協力して指揮をとった。シモガキ曹長が血まみれになり「革袋のカバンと背負うのを頼む。知れ部へ届けるように」といった。池村さんは海へ飛び込んだ。
5回目の機銃がむけられることを予感していたからである。

 船はアンカーをおろしていたので、そのロープの方へたどりつき、それにすがりながら飛行機の来る方向から体をかくした。船は燃えつづけていた。イカダにすがりつく慰安婦たちが片方だけにすがりついたためイカダが転覆し、アイゴー、アイゴーと叫びながらおぼれていくのが見えた。海はしけるし、泳ぎを知らない彼女たちは取り乱し、イカダにすがりながら手を放して、波にのみこまれていくのが多かった。

 米軍機は6回襲いかかったのち、攻撃が遠のいた。島がみえたので泳いで見ようと決心し、久部良に向けて泳ぎだした。だんだんつかれてくるので寝泳ぎに変えた。何かが足にふれるので足に力を入れてみたら砂地である。体を反転させると足が地につく。ひざぐらいのあさい海を必死に泳いでいたのである。

 助かったと思うと涙がポロポロこぼれて来た。久部良の警防団の人たちは沖の修羅場を見ていた様子で救出のた待機していた。しかし、執拗に攻撃してくる飛行機を見て手がつけられないまま見ているだけだったという。ふらふらしながらたどりついた池村さんを見て「どうなっているか」と聞いた。

 「船は燃えているが周囲には女性がイカダにすがっている。今のうちに助けて下さい。」と頼んだ。未だ生きている者がいると聞き、かつ米軍機はもう来ないと判断した警防団はすぐ救助作業を開始した。
 3~4隻のサバニで手分けして、イカダに助けを求めている朝鮮人慰安婦達を救助した。死体も久部良の海岸へ運んで来た。生き残ったのはわずか7名だけであった。

 久部良港のつけ根の所に小高い砂地の丘があった。約50体の遺体を、アダンの葉の枝を集めて火葬し、その丘に骨を埋葬した。生き残った朝鮮人女性たちから名前を聞き、3文字の姓名を記して簡単な墓標を立てた。宮里さんという漁業組合長を兼ねた警防団の世話役として活動した。その後、火葬してねんごろに葬ったと思うが、戦争中のことであり委細はわからない。
 丘のガマの中に葬ったままなおであろうか。

 重傷を負って辿りついた13人は与那国に駐屯する海軍部隊の衛生兵が応急手当をした。
池村さんは宮崎武之という八重山の旅団長を本部に訪ねて遭難の報告した。渡辺大尉も死亡したことを報告し、シモガキ曹長から託された皮のカバンもとどけた。何が入っていたのか分からない。旅団長は民家の良いかまえの家に住んでいて「しばらく静養して行け」といっていた。

 生き残った7名の慰安婦をつれて伊良部島へ着いた。伊良部を経て、着の身着のまま宮古島に着き7名の慰安婦を野原越の師団管理部へ連れて行った。慰安所はいまの沖縄食糧会社の西隣、西里、野原越にあった。
慰安婦たちは池村さんの家によく遊びに来た。池村さんが京城の歯科医専を出ていたので彼女らとできる親しくしてあげた。戦後も彼女たちは遊びに来た。

 戦後3年経って、偶然にも安謝で生き残ったその時の一人にばったり会ったことがある。
「何故、沖縄に残ったか」ときくつもりであったが、彼女は「2~3人の遭難者の連中は那覇にいるよ」と語った。那覇に引き揚げ、すぐには朝鮮には帰らないかったようだ。




 証言       佳村 文子(当時将校軍慰安婦)


 佳村文子さん(仮名・当時22歳)は、今、朝鮮に帰っているが、彼女の体験もあわれである。
1944年12月10日、太田で川本某(韓国籍創氏名、当時50歳)より、日本本土に行き女工として働けば賃金を多くとれ、1,2年熱心に働けば親姉妹とうるおいある生活を営めるといわれて、ついて行った。

 前金はほとんど両親に渡し、簡単な荷物だけを持って30名の女工希望者と共に、釜山から関釜連絡船で下関に到着、出迎えの日本人の案内ですぐ別の船に乗せられ鹿児島港に到着、指定された旅館に泊まった。
鹿児島市内の工場で働くことになるのかと思っていたら、7日目に突然、軍用船に乗せられた。その時からどうもおかしいなと皆、不安がってふるえ、川本某に訴えると、心配するな大丈夫だ、というだけ。

 船は夜間だけの運航で、昼間は小さな島に停泊し夜になると運航する状態で、出航して2日目、突然、空襲を受け、同僚30名のうち船首に乗っていた15名全員が死亡。空襲がおさまり、死亡した15名と他の日本人軍属の遺体を船員が簡単な読経ののち、火葬にふした。みんな驚きと恐怖のあまり川本某にすぐ帰してほしいとせまったが、川本某とてどうすることも出来ず、ただ運を天にまかすほかなかった。

 3日目に、傷ついた船は割合に大きな島に到着、その島が宮古島で、川本某は、ここで日本軍人の将校に皆を引き渡して去ってしまった。
 将校は、村から少し離れたわら葺の仮小屋へ案内、将校が去った後、下士官がやって来た。「お前たちは明日から日本軍女子挺身隊員となり、軍人のため身を挺して働くことになる。ここにしるした規則は必ず守らなければいけない。若し規則に違反した場合は、直ちに厳罰に処す。」といって、紙切一枚ずつ各自に渡した。

 それを読んで始めて、日本軍の慰安婦要員であることを知った。「空襲を受けたとき死んでいたら、こんな思いはしなくてもすんだものを・・・。」彼女たちは一晩中、お互い抱き合って、「オンマ」、「オッパ」を呼びながら泣きあかした。

 佳村文子さんたちは、宮古についた翌日からわら葺の仮小屋で日本軍の慰めものになった。若くて美しかった彼女は滝田大尉の専用となり、多くの兵隊に接することなく過ごすことができたが、他の女達は昼2時から夜12時まで一日数十名の将校の相手をさせられ、片手にお金を持って列をなして順番を待っている兵隊達の姿が連日見受けられた。

 この光景は、想像を絶する悲惨なものだった。彼女たちは心の痛みをいやすために飲めない酒を飲み、故郷に思いを馳せながら毎日の悪夢を忘れようと努力した。

 宮古でも空襲が激しくなり、防空壕に出入りする時間が多くなり、沖縄の戦況が不利、ということは、兵隊達の動きで推察できた。兵隊達は「いつ死ぬか分からないから・・・。」といって荒れ放題で軍規は無きにひとしいものだった。
宮古島には幸いに米軍は上陸せず、空襲と艦砲射撃だけで、やがて沖縄は米軍の勝利で終わり、つづいて8月15日、日本軍が連合軍に降伏したと知らされた。

 8月26日、米軍が宮古島に進駐し、彼女達を郷里へ帰してくれることになり、鹿児島に送られ、ここでLSTでなつかしい故国への釜山に帰る事ができた。彼女はその船中で不幸にも滝田大尉の子供を宿していたことを知り、故郷で無事出産したが、6歳の年に病気で死亡した。その滝田大尉は沖縄本島の収容所にうつされたということ以外の消息は全然わからず、彼女もまた知ろうとしなかったという。

        (高尾常彦 鎮魂より)


「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・3

 これを読む限り、戦争で翻弄された女たちがいたことが事実であり、悲しみ、憤りを感じるところである。その女たちが、故郷から遠く離れたこの与那国島で最期を遂げたという事実があったということを知る事ができたことは、彼女たちの供養にもなるのではないでしょうか?
今は、冥福を祈るばかりです・・・

私達は2度と争いをしてはいけないという事を学び、胸に刻むことができた。


タグ :慰安婦

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Posted by 与那国イソバの会 at 20:58│Comments(3)与那国島
この記事へのコメント
宮古島に従軍慰安婦宿が存在していたということを何の本で読んだ記憶がある。
戦中、与那国に慰安婦達が来ていて命を落としたということ、始めて知った。

人権無視、己の欲求を満たす為に外国、朝鮮の女性たちの体を有無言わさず、強制的にコントロースするとは、
怒りの何ものでもない。私は70代の日本人女性2人に(本土の人)、”慰安婦問題はもう済んだこと、韓国は
この問題を持ち出すべきではない” といわれたことがある。国家間としては解決済みでも、その当事者たちに
すれば、もし、自分達が当事者だったとすれば、同じことが言えるのか? と。

慰安婦問題は、国が関わっていなかったということになっているようですが、それは事実だったのかどうか疑わしいというのが私の意見だ。

こういうことを聞いた事がある。ヒットラーに抹殺されたイスラエル人に対してドイツはその保障を個人に
きちんとしたと聞いている。その為かどうかは知りませんが、日本ー韓国間のように戦中の問題が戦後67年間も
尾を引いていないように(マスコミで報道がないように思えること)思える。日本ー韓国の場合は国対国で解決されているとはいえ、やはり、個人的にはまだ未解決だからことあるごとに問題になるのであろうかと思う。もちろん、日本も慰安婦保障は民間機関を設置はしているが、その後、どうなっているか、私はわかりません。

もし、そのよう出来事が与那国で起きていたのなら、なぜ、島の年配たちはその事について、知らないのかどうかは知りませんが、誰も私の知っている限りは話してくれた人はいないのはどうしてだろうか。

生きた島の歴史を年配の方たちから聞いておかねばといつも思う。そして、島に帰った時は私は必ず島の年配たちから昔、島で起きた出来事などを話している。

余談ですが、1477年、朝鮮済州島から出航したした船が海上で嵐に遭遇し、14日間の漂流の後、与那国に3名流れ着き、半年滞在。石垣、宮古、那覇に3ヶ月滞在して故郷へ帰ったという。その人たちは与那国での滞在記録を残しているという。それは”成宗実録” という見聞禄に記されているそうだ。そこでははじめて世界の文献で与那国島が出てくるという。(情報、写真集、沈黙の怒涛のドゥナン100年より)。

いつか、その方たちの子孫を与那国に招待したいものだ。いっそうのこと、済州島の住民達と与那国の住民たちが親睦を図れればいいと思う。姉妹都市の台湾の花連市の住民たちと与那国の住民たちが交流するようなイベントを島お越しに活用できないものだろうか。
Posted by 見守る人 at 2012年03月02日 08:59
見守る人さん

 おはようございます。
今年の1月に韓国の方と、沖縄の世話人の方が与那国を訪ねてきて、その事話されたそうです。与那国のほとんどの人が知らないのは、最初に書いた中にありますが、住民に知られないようにしたようですね。
悲しい話しですよね。お年寄りに聞いてみようかと思います。
私は、「慰安婦」が存在していたらしいというのは、母から聞きました。戦争で女たちが、弱い者が、そういう目にあったということは、とても悲しいことです。

1に書いてありますのが・・・
「慰安婦」は軍の機密事項であり、住民の目にふれないように軍の命令によって警防団は遺体をサバニで引き揚げ、火葬したと思われる。与那国島の直接戦争死亡者は「38名」と記録されており、朝鮮人「慰安婦」46名はどこにも記録はない。
Posted by 与那国イソバの会与那国イソバの会 at 2012年03月02日 11:10
与那国イソバの会さん、
そうでしたか、韓国の方と沖縄世話人の方が与那国を訪ねてきてそのことを話されたのですか。
なんだか、とても悲しいです。与那国でそういうことが起きていたということが。
その方たちのご冥福を祈ります。戦争って本当にいやですね。やってはいけないです。

国家は国民に都合のわるいものは何でもふたをしてしまうのですよね。よって、国民には史実をしらされないことがおおいのです。この不条理、怒りのなのものでもありません。私たちが信じている歴史なんて当時の権力者たちが
自分達に都合のいいように記録を残しているのかもしれません。ですから、歴史が本当に真実かどうかも怪しいです。

日本で生まれ、27歳まで日本で過ごして韓国へ帰国したという韓国人の叔父さんから聞いた話です。
戦後、戦地で負傷した兵士達を乗せた日本へ向う船を軍は意図的に沈めたと。なぜなら、その負傷兵たちは国の厄介者になるから。慰安婦のことから推測しても、そのようなことはなかったとはいいきれないですね。

戦後67年にもなるのに、未だに沖縄本島では不発弾の処理をしている、なんだんでしょうね、これ。
与那国に自衛隊が駐屯されれば、今までの島の生活は変り、そのうち、島人が島からいなくなるということにも
なりかねないです。現に、ディエゴガシヤー島人はイギリス、米国が中近東戦争のミサイル発射基地に使用するために島を追い出されて(人口約1500名)、島人は島に戻りたいと裁判中です。与那国とそのディエゴガシヤー島が
いつも私のとっては重なります。

どういう与那国島でありたいのか。どういう生活を島でしたいのか。何年先の与那国の姿を見据えて、自分たちのことを優先して、防衛省がなんといおうが自分たちの意志を守り通す。その強い意志があれが、何事に打ち勝てる。
怖いものなし。

与那国に自衛隊はいらない!他の選択で島の人口を増やし、経済活性化を考えよう。
Posted by 見守る人 at 2012年03月03日 15:02
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