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2012年02月25日

「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・2

私達、与那国島に住む者でも知る人は少ないと思いますし、周りに聞くと初めて聞いたというのが感想でした。
それと、その内容に悲しくなりました。今日は、昨日の続きですが、その3(証言)までありますので、ご覧いただきたいと思います。終わりに又感じたことなども書きたいと思います。

西崎灯台と夕日
「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・2

与那国島で虐殺された朝鮮人「従軍慰安婦」  編集 長田 勇氏 より転載しました。

昨日のつづきです。
        
朝鮮人慰安婦の遭難    宮古島 池村恒正

 昭和18年、平良市西里で歯科医院を開業していました。当時は篠原、西村、高嶺それに私の四か所がありましたが、戦争が次第に悪化の一途をたどる中で、他府県から来て開業していた篠原氏、西村氏は各々郷里へ引き揚げていきました。19年、いよいよ、宮古も戦争にまきこまれると云う事で私も家内を島根県へ疎開させました。身重の体で、子供二人をつれ、家族別れをして、妻は旅立ち母と私と妹三人で宮古に残ることになりました。家族別れの生活は不本意だし私も一緒に行きたかったのですが、軍部はそれを認めませんでした。
 
 19年末頃、町の大半が空襲で焼失しましたが、西里東部にあった私の診療所が焼け残りました。
そこを軍医部が集会所として接収したのです。軍医部の脇田大佐と知り合い、その情実で、召集からはまぬがれました。「本来なら君も行くべきだが、それを免ずるから、台湾に行って来い」と云うのです。鏡原小学校にある陸軍病院にマラリア患者があふれ、その患者たちを移動させるに担架が必要だが足りない。医薬品も欠乏している。台北帝大の医学部の分室まで行きその不足している物資をとって来るように云われました。

 暁部隊と呼んでいた船舶隊の川辺大佐にかけ合い小型の機帆船が用意されました。当時、町会議員をしていた嵩原重夫が、疎開している町民の視察と云う名目で同乗する事を申し込んできました。船が出ることを知って織物組合長をしていた座間味朝幸氏がたずねて来ました。宮古には生活物資が払底しているし、ついでに何か買って来た方が良いと云うのです。

 織物組合の金を使って呉れないかと当時の金で五万円、寝耳に水です。好きなように使って、タバコ、紙類を買って来て呉れと云うのです。どんな世の中に変わるかも知れんから二万円だけあずかろう、そうでないとあなたの身のあかしが立たん。但し、ひんぴんと船が沈没させられているし、二万円あずかっても、それだけの品物をあなたにとどけるという確実な約束は出来かねる。ここはいちかばちか、あなたは二万円出す。

 私は命がけで行く。事の成功、不成功は問わぬと云う一札を入れろと云いました。それはその通りだと云う事でしたが、言葉だけでなく必ず一札入れろ入れさせられました。私と嵩原氏の二人だけを乗船させ、三日後、無事台北につきました。台北駅前にあった医学部分室で話しをつけ、台南の陸軍病院から担架と薬品類がとどけられました。

 キールン港から暁部隊が別の船を仕立てる事になり、私はその間に宮古から来ている疎開者のいる所をたずねたり、物資の買入れをしました。宮古への船がある事を知り、当時の伊良部村長の友利カツ、城辺村長の友利正春、下地村長の下地恵知氏が乗船し、朝鮮人の慰安婦53名を乗船させ、キールン港を出港しました。軍人二人が、その慰安婦たちについて来ました。

 キールン港を出て、午前の四時頃シャリョウ町の桟橋の沖合一海里くらいにさしかかった時、同乗した村長三人が船長室のキャビンに集まり、昨夜の夢見が悪い、船がポンポンやられる夢を見た。そこの桟橋に船をつけておろして呉れる様、交渉してくれと云うのです。船長にその旨告げると、軍命令で動かしている船を、予定にない勝手な場所につけるわけには行かん、強いておりるならそこからおりて泳げと云うのです。桟橋から百メートルくらい沖を通り始めました。伊良部の村長をのぞけば五十歳すぎのひとたちがとびこんで泳いで行きました。結局、民家人は私と慰安婦たちが残りました。

 翌日の夜明け前に与那国に着きました。そこには船をつける岸壁がないから、霧が晴れてから入港しようと、港外に船を止めました。
 夜が明けそめる頃、北の方から飛行機が一機来ました。アメリカの飛行機なら編隊を組んで来るし、こんな小さな機帆船でも日本軍は守ってくれるんだ、ありがたいもんだと、甲板に出て、朝の空気を良い気持ちで吸っていました。慰安婦達はハンカチを振って飛行機を見ていました。北西の方向に来ると、日本の飛行機ではない!急降下してくるのです。くもの子を散らす様に甲板に散って船底にもぐったのです。いつでも日本軍が守る云う事だったしそれを過信していました。
 
 最初の銃撃で十数名慰安婦たちがたおれました。甲板の上には逃げおくれた女たちがなきわめいているのです。第一波の攻撃がすんだと思うとくりかえしおそいかかって来るのです。どうしたら命が助かるかと水タンクに腰をおしつけてふるえている私の右側に二人、左側に一人、朝鮮の女性がふるえて身動きできないでいるのです。三回目の銃撃の時、ロケット発射と同時に破片らしきものが私の上衣のボタンを砕き左手にいた女性の胸部を貫くのです。ふりむく間もないあっと云う間の出来事で、ほとんど即死です。

 発射されたロケット弾が機関部命中したらしく、黒煙が上がりました。それでも飛行機は去りません。このまま船上にいては、船もろとも沈められしまうと、甲板をかけ出しました。慰安婦たちについて来たシモワキと云う曹長が血まみれなり甲板にころがっていました。肩からかけていた皮袋のカバンを頼むと云うのです。それをうけとるなり、海へとびこみました。船はアンカーをおろしていたのでそのロープの方へたどりつき、それにすがりながら飛行機の来る方向から体をかくしました。だれかが先にイカダを梅へ落としていたらしくそれにすがりつく慰安婦たちが片方だけにすがりついたため、イカダが転覆し、アイゴー、アイゴーと叫びながらおぼれていくのです。

 六回襲いかかったのち攻撃が遠のいたと思います。すきをねらって岸の方へ泳ぎだしましたが、だんだん疲れて来るので寝泳ぎに変えました。何かが足にふれました。足に力を入れて見たら砂地です。体を反転させると足が地につく。ひざくらいの所を必死に泳いでいたのです。助かったと思うと、涙がポロポロこぼれて来ました。

 久部良の警報団の人たちが沖の修羅場を見ていた様ですが、執拗に攻撃している飛行機を見て、手がつけられないまま、見ているだけだったと云うのです。ふらふらしながら、たどりついた私を見て、まだ生きている者がいると云うことで、救助作業が始まりました。くり舟を出して死んだ人たちを運んで来ました。生き残った朝鮮の女性は七名だけでした。この人たちは好き好んでイアンビーになったわけではない。日本の強権でつれてこられた人たちだったのです。

 湾になった港のつけ根の所に小高い砂地の丘があった。50体程、アダンの枝を集めて火葬し、その丘に骨を埋葬しました。生き残った女性たちから名前をきき三文字の姓名を記し簡単な墓標を立てました。宮里さんと云う漁業組合長が警防団長も兼ねていて、その人が世話役になっていました。

 宮崎武之と云う師団長の所へ、曹長から託された皮のカバンをとどけました。何が入っているかは見ませんでした。師団長は民家の良いかめの家に住んでいて、しばらく静養して行けと云っていました。生き残った7名の慰安婦をつれて伊良部島に着きました。伊良部青年学校には与那覇春吉氏が校長をしていて、台湾から着いたと云う事を聞いて疎開させていた妻子の消息を聞きに来ていた。アンペラ一枚が、一世帯のスペース。
 
 冬の寒さにこたえていた旨、冷えと栄養失調で宮古へつれて帰ってくれと泣いてすがる苦労の様子を若かったせいもあってありのまま話したら、春吉先生はシワブリ(心配のあまり意気消沈)している。奥さんの眼が悪化したのも、あの時の栄養失調が原因をしていると思う。

 伊良部島を経て、着のみ着のまま宮古島に着き、七名の慰安婦を野原越の師団管理部へ連れて行きました。慰安所が今の沖縄食糧会社の西隣、西里、野原越にありました。野原越の管理部は垣花恵栄宅にありました。兵隊の性欲と云うのはそんなに強いものだおるか、連日、列をなして順番を待っていました。担架と薬品をとりに行って、それははたさず、二万円の物資は無一物となり、朝鮮の女性7名をつれて帰ったわけです。

 二十年五月、もう、町の中は無人化し、城辺村の字友利に疎開しました。農家の馬小屋を借りてそこを診療所にしました。地方に行く程、物資があるのです。白米、缶詰類が。将校たちも治療に来るのですが、治療は二の次で、昼間から持参した日本酒を、私の借家で飲んでいました。軍規は乱れていたのです。

 五月4日、友利そこばりから、東の海に、黒と灰色の軍艦がズラリと海を圧する様に浮かんでいる。艦上の人の動きがわかる。いよいよ、最後だと、青酸カリを前もって用意していたから、上陸して来たら、これを飲んだら、”きれいになる”(楽に死ねる)からと老母と妹に一包みずつ渡し、壕に入れた。いっせいに砲門を開き、頭の上を、すずめが群がる様な音を立てて砲弾が飛んで行く。三十分くらい間断なくその音が続いて、前方の軍艦が、北に動く。平安名崎の方に向いている。そこから、上陸して来るのだと心配していたら、そのまま北上して行った。


 つづきがあります。

 (オキナワ戦の女たち 朝鮮人慰安婦から)証言です。

現在の久部良港
「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・2


タグ :慰安婦

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