てぃーだブログ › バンタ ドゥナンチマ カティラ二ヌン 与那国島の明るい未来を願うイソバの会 › 与那国島 › 「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・

2012年02月24日

「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・

与那国島の久部良で米軍機に襲撃された時の朝鮮人「従軍慰安婦」達の叫び。慰安婦達は、台湾の基隆(キールン)から宮古島へ移送の途中、与那国島でのできごと。
現在これを知る人達はいるのだろうか?周りに聞いてみたが、ほとんどの人が知らなかった。こんな悲しいできごとが、与那国島で起きていたなんて。

「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・

与那国島で虐殺された朝鮮人「従軍慰安婦」   編集 長田 勇氏

はじめに

 「沖縄県史、沖縄戦記録2」に、与那国島における「朝鮮人慰安婦の遭難」という宮古島の軍医の池村恒正さんの聞き書きの記録がある。
 それによると1944年12月に、台湾から宮古島に連行されようとした朝鮮人「従軍慰安婦」53名が与那国島の久部良港でアメリカの艦載機による機銃掃射とロケット弾によって46名が虐殺された。
 久部良港のつけ根の小高い砂地の丘に、約50体の遺体をアダンの枝を集めて火葬し、ガマの中に埋葬された。殺された女性の姓名を記し簡単な墓標が立てられた。

 「朝鮮人女性たちの骨は丘のガマの中に葬ったままのであろうか」と池村さんは語っている。


久部良部落 

 与那国島は、1944年10月13日に久部良南部部落がアメリカ軍の空襲により、106戸が全焼した。与那国島初の空襲である。3名が銃撃で死亡、3名が防空壕で焼死した。住民は久部良岳のダヤ(ガマ)に避難した。
 また12月31日には、アメリカ軍の空襲で久部良北部落が全焼した。

台湾・基隆港
 
 制空権をアメリカに握られている中で、1944年末、朝鮮人「慰安婦」53名を乗せた暁部隊の機帆船は、台湾の基隆(キールン)港(当時は日本軍の軍港で、付近一帯は要塞地区になっていた。基隆の人口8万7400名中、日本人は焼く2万人もいた)を夜に出港、翌日夜明け前に久部良港に着いた。
 入港して、また夜出港する予定だったのであろう。しかし先に見たように久部良部落は全焼、住民は久部良岳のダヤに避難していたが、郡から連絡を受けた久部良の警防団がこの暁部隊を迎えに出ていた。
 「慰安婦」は軍の機密事項であり、住民の目にふれないように軍の命令によって警防団は遺体をサバニで引き揚げ、火葬したと思われる。与那国島の直接戦争死亡者は「38名」と記録されており、朝鮮人「慰安婦」46名はどこにも記録はない。

宮古島の慰安所

 さて朝鮮人「慰安婦」たちが、台湾から強制連行されようとした行き先地宮古島は、大体営が1944年7月から1945年2月までに、「米軍が宮古島に上陸する」と判断して、約3万人の軍隊を派遣した島である。この部隊配置にあわせて「慰安所」が次々とつくられ16か所におよんだ。そして中国から朝鮮から台湾から「慰安婦」たちは連行されたのである。


    つづく


タグ :従軍慰安婦

同じカテゴリー(与那国島)の記事
あ~あもう11月!
あ~あもう11月!(2016-10-31 23:49)

帰ってきました。
帰ってきました。(2016-09-07 23:08)

 応援してます!
 応援してます!(2016-07-07 23:33)

明日の晩 あります
明日の晩 あります(2016-06-15 00:58)

回答 続き
回答 続き(2016-05-10 08:13)


Posted by 与那国イソバの会 at 21:02│Comments(0)与那国島
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。