2019年10月11日

「10.11与那国大空襲」から75年

「10.11与那国大空襲」から75年
 昨日の琉球新報社説は10.10空襲を取り上げています。
 「沖縄戦」に至る5か月前でした。米軍の一斉空襲は南西諸島全域におよび、この与那国島も逃れることはありませんでした。
 島の南側に位置する比川小学校は記録しています。おそらく、当時の教員が記した学校日誌だろうと思います。創立90周年記念誌『ひがわ』(1991年発行)に再録されています。
「(1944)10/11 初空襲警報発令。待避完了、北西より南方一帯砲声段々。」
 比川からみて「北西より南方」は、久部良集落の南部落であろうと思われます。
 この時の状況を、島生まれの宮良作さんは自著で次のように記しています。
「最初の空襲は昭和19年(1944)10月13日、久部良部落の空襲でした。このとき、3名が直接被弾して死亡、二人の姉妹が屋敷内の防空壕に避難しましたが、燃えつきた自宅が、防空壕の上に崩れ落ちて焼死したのです。
 空襲を受けたのは南部落でしたが、106戸が全焼しました。与那国島始まって以来の空からの攻撃に住民は驚き、一目散に裏山に逃げ込みました。・・さらに12月31日に久部良北部落が襲撃を受け、ほとんど全焼しました。」(p171 『国境の島 与那国島誌』2008年初版)
 初空襲の日付にズレがあり確認の必要がありますが、公務日誌の記録からみれば、今日10月11日は与那国大空襲75年になります。
 明治以来、台湾・大陸への軍事進出の拠点に位置づけられた与那国島。一番高い宇良部岳山頂に旧海軍が望樓(監視所)を建設し、行き交う船舶・航空機を観測していました。ここも米軍機の攻撃により15名駐屯していた兵士のうち、2名が戦死しています。重症兵士の足切断を島民が遠巻きに見ていたといいます。
 海軍、陸軍が駐屯していた島は、重要な港町を破壊されました。比川小学校の子どもたちは森のなかで「林間学校」を余儀なくされ、集落の方々が総出で造った校舎に偽装がされました。
 10.10空襲を受けた奄美、本島、宮古、与那国に新たな軍事基地が造られ、日米共同使用を前提に運用が始まっています。石垣は工事着工をめぐって山場に来ています。
 75年前の10.10空襲は過去のできごとではない、この社説を共有したいと思います。
 



Posted by 与那国イソバの会 at 10:52│Comments(0)
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