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Posted by TI-DA at

2012年02月29日

みんなの島だから!

全島民が集まって話すこともなし、町長が町民に語ることもなし、これでは島の発展に繋げらるの?

町長は、経済活性化の為に自衛隊を企業と考え誘致すると言うが、防衛省は国防だから言い張るし。

どっちなの?

はっきり言って、自衛隊を誘致したところで、島独自のものが成り立たないことははっきりしている。

それでも、町長さん、議員さん、防衛協会長さん、宜しいというわけですかね?

だいたい、町民と面と向かってその話しはしていないし、突然過ぎる与那国町議会での決定。


皆さん、将来の与那国にちゃんと責任をお取りになる覚悟はありますか?



本当に自信がおありになるなら、ご自分達の言葉で、反対する町民ひとりひとりをちゃんと納得させることができるのではないでしょうか?

突然降って沸いたような自衛隊誘致問題、その署名の存在すら疑わしいですよ。誘致反対署名は皆さん、穴が開くほど見ていると思いますので、今度はその賛成署名とやらをせめて議員先生に見せては如何。

本当に今のまま進んで良いか、よく胸に手を当てて考えて下さいよ。

例え防衛省が尻を叩いても、今なら引き返すことができるのです。

彼らの頭に、口に、太刀打ちできないかもしれないけど、そこから外れる手は幾らでもあるはず。

所詮彼らも人間ですから、弱いところいっぱい見えてるし、引き返す手は幾らでもあるよ。

あの女周長サンアイ・イソバから諭せと命令が下っているけど、どうする?(笑)


一時の欲で島を手放して後悔するよりも、今、引き返すことが最善の策。

それで町長は、12月の町議会でいい決断をされましたね。

「住民投票も視野に入れても良い」とね。

みんなで考えてこそ、未来は見える。

みんなの与那国島だからこそよ!  


Posted by 与那国イソバの会 at 22:58Comments(4)与那国島

2012年02月27日

無駄だと思う。

先ほどラジオから野田総理が、消費税を5パーセント上げ、それを全て社会保障に充てると言っていた。
国民の怒りを尻目にそれを押し進めたいようだが、昨年の予算計上で与那国島へ自衛隊を配備する為に10億円の予算が計上されたが、そんな時に・・・

その10億円は、土地取得の為に使われるそうです。という事は、まだまだいろんな億単位の予算を付けないといけないのです。

苦しいのに消費税を上げたいと言われ、国民をどれほど苦しめればいいのだろうか?それが、本当に社会保障費にだけ使わる保証はありません。

中国の脅威をあおって、与那国島に自衛隊を配備しないと日本が危ないと言っておりますが、これはとんでもない間違い。
島にそのような兆候はなく普通に暮らしております。島は昔からありますが、そんな脅威を感じる町民はほとんどいないと思います。今ついた予算の10億円で島は潤わない。と云うのは、ごく一部の権利者に配布されるだけだから。

税金が無駄に使われるだけだし、島の自然を壊すだけ。都会から疲れた身体を癒しにやって来る人にとっても、全世界から遺産級の海底遺跡を見に来るお客さん、その他諸々島でしか出会えない自然植物、生き物などに出会いにやって来る観光客の方々の楽しみを奪うだけ。


それが又島の経済を打撃し、島を衰退させてしまうオソレあり。

この島に住民がいることが、島を防衛する手段だと思います。大事な税金を使って、近隣国を刺激し余計な出費を産むだけであると考えます。

どうか多くの国民の皆さん、この与那国島の現状を把握して頂きます様に、心よりお願いを申し上げます。

どうせなら、与那国島はどんなところか、観光がてらご覧になっては如何でしょうか?

予算計上された税金を投じる必要があるかどうか、ご覧下さい。

税金が無駄に使われないように、関心を持って下さい。

  


Posted by 与那国イソバの会 at 20:57Comments(1)自衛隊誘致反対

2012年02月26日

「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・3

こんばんは。
島は、今日も天気悪いです。まるで、彼女達の叫び声が一緒になっているかのように聞こえます。
証言の文中に両親を呼び「オッパー」、「オンマー」と泣く彼女達の姿が、なぜか浮かぶようなきがした。


今日は、与那国の海で米軍に襲撃された朝鮮人「従軍慰安婦」についての最終になります。皆さんは、どう感じましたか?島の人達も知らなかったとびっくりする人が多かった。今回、ブログに書くことによって大勢の方に、この事を知って頂ければ、まだ与那国のガマで眠っている??彼女達も、少しは浮かばれるのではないでしょうか?


 「オキナワ戦の女たち 朝鮮人従軍慰安婦     福地曠昭氏」
上記より転載しました。

 証言     池村恒正(当時軍医)    宮古平良市

 数年前、私は宮古平良市の池村歯科病院を訪ねた。池村さんから53人の慰安婦を台湾から連れて来た話しを伺った。
昭和19年の末頃、鏡原小学校にある陸軍病院にマラリヤ患者があふれ、医薬品等が不足していた。当時、31歳の歯科医だった池村恒正さんは台北帝大の医学部にマラリアの薬を取りに行くよう軍医部から命令された。小型の機帆船が用意され、無事、台北に着き、医療品等を受け取りキールン港を出港した。機帆船で大型の木造船には朝鮮人慰安婦53人が乗船していたという。
 
 この慰安婦たちには渡辺大尉とシモガキ(下垣?)曹長がついていた。野原越にある陸軍司令部から、慰安婦を台湾から連れてくるように派遣された二人であった。
 この機帆船は暁部隊の船舶で、キールンを出た翌日の夜明け前に与那国へ着いた。そこには船をつける岸壁がないので、霧が晴れてから入港しようと、港外に船を停泊させた。久部良沖である。これが悲劇を招いた。空が白みかける朝5時ごろ、北の方から飛行機が2機飛来してきた。翼に赤いマークが見られるので友軍機が防衛に来たと思い、甲板に出て感激していた。

 慰安婦たちもハンカチを振って飛行機に感謝の気持ちを示した。北西の方向に来ると友軍機でないことがわかった。飛行機は急降下して機銃掃射で10数名の慰安婦が倒れた。米軍機は3~4回も旋回して銃撃してきた。
 甲板の上には逃げおくれた女たちが泣きわめいている。池村さんは水タンクを背景にして小さくうずくまっていた。ふるえている池村さんは水タンクを背景にして小さくうずくまっていた。ふるえている池村さんの右側に二人、左側には一人の朝鮮人女性が、ガタガタふるえ身動きができない。三回目の掃射のとき、破片が池村さんの上衣のボタンを砕き左手にいた女性の胸部を貫いた。ふりむく間もないあっという間のできごとであった。

機関部に弾が命中したらしく、もうもうと黒煙が吹き出た。万事休す!このまま船上にいては沈められてしまう。海に飛び込む以外はない。甲板へかけ出しシモガキ曹長が、陣頭指揮をとって甲板からイカダを海へ放り投げた。

 泣き叫ぶ女たちを次々と海へ突き落とし、「イカダにすがれ」と命じた。池村さんも協力して指揮をとった。シモガキ曹長が血まみれになり「革袋のカバンと背負うのを頼む。知れ部へ届けるように」といった。池村さんは海へ飛び込んだ。
5回目の機銃がむけられることを予感していたからである。

 船はアンカーをおろしていたので、そのロープの方へたどりつき、それにすがりながら飛行機の来る方向から体をかくした。船は燃えつづけていた。イカダにすがりつく慰安婦たちが片方だけにすがりついたためイカダが転覆し、アイゴー、アイゴーと叫びながらおぼれていくのが見えた。海はしけるし、泳ぎを知らない彼女たちは取り乱し、イカダにすがりながら手を放して、波にのみこまれていくのが多かった。

 米軍機は6回襲いかかったのち、攻撃が遠のいた。島がみえたので泳いで見ようと決心し、久部良に向けて泳ぎだした。だんだんつかれてくるので寝泳ぎに変えた。何かが足にふれるので足に力を入れてみたら砂地である。体を反転させると足が地につく。ひざぐらいのあさい海を必死に泳いでいたのである。

 助かったと思うと涙がポロポロこぼれて来た。久部良の警防団の人たちは沖の修羅場を見ていた様子で救出のた待機していた。しかし、執拗に攻撃してくる飛行機を見て手がつけられないまま見ているだけだったという。ふらふらしながらたどりついた池村さんを見て「どうなっているか」と聞いた。

 「船は燃えているが周囲には女性がイカダにすがっている。今のうちに助けて下さい。」と頼んだ。未だ生きている者がいると聞き、かつ米軍機はもう来ないと判断した警防団はすぐ救助作業を開始した。
 3~4隻のサバニで手分けして、イカダに助けを求めている朝鮮人慰安婦達を救助した。死体も久部良の海岸へ運んで来た。生き残ったのはわずか7名だけであった。

 久部良港のつけ根の所に小高い砂地の丘があった。約50体の遺体を、アダンの葉の枝を集めて火葬し、その丘に骨を埋葬した。生き残った朝鮮人女性たちから名前を聞き、3文字の姓名を記して簡単な墓標を立てた。宮里さんという漁業組合長を兼ねた警防団の世話役として活動した。その後、火葬してねんごろに葬ったと思うが、戦争中のことであり委細はわからない。
 丘のガマの中に葬ったままなおであろうか。

 重傷を負って辿りついた13人は与那国に駐屯する海軍部隊の衛生兵が応急手当をした。
池村さんは宮崎武之という八重山の旅団長を本部に訪ねて遭難の報告した。渡辺大尉も死亡したことを報告し、シモガキ曹長から託された皮のカバンもとどけた。何が入っていたのか分からない。旅団長は民家の良いかまえの家に住んでいて「しばらく静養して行け」といっていた。

 生き残った7名の慰安婦をつれて伊良部島へ着いた。伊良部を経て、着の身着のまま宮古島に着き7名の慰安婦を野原越の師団管理部へ連れて行った。慰安所はいまの沖縄食糧会社の西隣、西里、野原越にあった。
慰安婦たちは池村さんの家によく遊びに来た。池村さんが京城の歯科医専を出ていたので彼女らとできる親しくしてあげた。戦後も彼女たちは遊びに来た。

 戦後3年経って、偶然にも安謝で生き残ったその時の一人にばったり会ったことがある。
「何故、沖縄に残ったか」ときくつもりであったが、彼女は「2~3人の遭難者の連中は那覇にいるよ」と語った。那覇に引き揚げ、すぐには朝鮮には帰らないかったようだ。




 証言       佳村 文子(当時将校軍慰安婦)


 佳村文子さん(仮名・当時22歳)は、今、朝鮮に帰っているが、彼女の体験もあわれである。
1944年12月10日、太田で川本某(韓国籍創氏名、当時50歳)より、日本本土に行き女工として働けば賃金を多くとれ、1,2年熱心に働けば親姉妹とうるおいある生活を営めるといわれて、ついて行った。

 前金はほとんど両親に渡し、簡単な荷物だけを持って30名の女工希望者と共に、釜山から関釜連絡船で下関に到着、出迎えの日本人の案内ですぐ別の船に乗せられ鹿児島港に到着、指定された旅館に泊まった。
鹿児島市内の工場で働くことになるのかと思っていたら、7日目に突然、軍用船に乗せられた。その時からどうもおかしいなと皆、不安がってふるえ、川本某に訴えると、心配するな大丈夫だ、というだけ。

 船は夜間だけの運航で、昼間は小さな島に停泊し夜になると運航する状態で、出航して2日目、突然、空襲を受け、同僚30名のうち船首に乗っていた15名全員が死亡。空襲がおさまり、死亡した15名と他の日本人軍属の遺体を船員が簡単な読経ののち、火葬にふした。みんな驚きと恐怖のあまり川本某にすぐ帰してほしいとせまったが、川本某とてどうすることも出来ず、ただ運を天にまかすほかなかった。

 3日目に、傷ついた船は割合に大きな島に到着、その島が宮古島で、川本某は、ここで日本軍人の将校に皆を引き渡して去ってしまった。
 将校は、村から少し離れたわら葺の仮小屋へ案内、将校が去った後、下士官がやって来た。「お前たちは明日から日本軍女子挺身隊員となり、軍人のため身を挺して働くことになる。ここにしるした規則は必ず守らなければいけない。若し規則に違反した場合は、直ちに厳罰に処す。」といって、紙切一枚ずつ各自に渡した。

 それを読んで始めて、日本軍の慰安婦要員であることを知った。「空襲を受けたとき死んでいたら、こんな思いはしなくてもすんだものを・・・。」彼女たちは一晩中、お互い抱き合って、「オンマ」、「オッパ」を呼びながら泣きあかした。

 佳村文子さんたちは、宮古についた翌日からわら葺の仮小屋で日本軍の慰めものになった。若くて美しかった彼女は滝田大尉の専用となり、多くの兵隊に接することなく過ごすことができたが、他の女達は昼2時から夜12時まで一日数十名の将校の相手をさせられ、片手にお金を持って列をなして順番を待っている兵隊達の姿が連日見受けられた。

 この光景は、想像を絶する悲惨なものだった。彼女たちは心の痛みをいやすために飲めない酒を飲み、故郷に思いを馳せながら毎日の悪夢を忘れようと努力した。

 宮古でも空襲が激しくなり、防空壕に出入りする時間が多くなり、沖縄の戦況が不利、ということは、兵隊達の動きで推察できた。兵隊達は「いつ死ぬか分からないから・・・。」といって荒れ放題で軍規は無きにひとしいものだった。
宮古島には幸いに米軍は上陸せず、空襲と艦砲射撃だけで、やがて沖縄は米軍の勝利で終わり、つづいて8月15日、日本軍が連合軍に降伏したと知らされた。

 8月26日、米軍が宮古島に進駐し、彼女達を郷里へ帰してくれることになり、鹿児島に送られ、ここでLSTでなつかしい故国への釜山に帰る事ができた。彼女はその船中で不幸にも滝田大尉の子供を宿していたことを知り、故郷で無事出産したが、6歳の年に病気で死亡した。その滝田大尉は沖縄本島の収容所にうつされたということ以外の消息は全然わからず、彼女もまた知ろうとしなかったという。

        (高尾常彦 鎮魂より)




 これを読む限り、戦争で翻弄された女たちがいたことが事実であり、悲しみ、憤りを感じるところである。その女たちが、故郷から遠く離れたこの与那国島で最期を遂げたという事実があったということを知る事ができたことは、彼女たちの供養にもなるのではないでしょうか?
今は、冥福を祈るばかりです・・・

私達は2度と争いをしてはいけないという事を学び、胸に刻むことができた。  
タグ :慰安婦


Posted by 与那国イソバの会 at 20:58Comments(3)与那国島

2012年02月25日

「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・2

私達、与那国島に住む者でも知る人は少ないと思いますし、周りに聞くと初めて聞いたというのが感想でした。
それと、その内容に悲しくなりました。今日は、昨日の続きですが、その3(証言)までありますので、ご覧いただきたいと思います。終わりに又感じたことなども書きたいと思います。

西崎灯台と夕日


与那国島で虐殺された朝鮮人「従軍慰安婦」  編集 長田 勇氏 より転載しました。

昨日のつづきです。
        
朝鮮人慰安婦の遭難    宮古島 池村恒正

 昭和18年、平良市西里で歯科医院を開業していました。当時は篠原、西村、高嶺それに私の四か所がありましたが、戦争が次第に悪化の一途をたどる中で、他府県から来て開業していた篠原氏、西村氏は各々郷里へ引き揚げていきました。19年、いよいよ、宮古も戦争にまきこまれると云う事で私も家内を島根県へ疎開させました。身重の体で、子供二人をつれ、家族別れをして、妻は旅立ち母と私と妹三人で宮古に残ることになりました。家族別れの生活は不本意だし私も一緒に行きたかったのですが、軍部はそれを認めませんでした。
 
 19年末頃、町の大半が空襲で焼失しましたが、西里東部にあった私の診療所が焼け残りました。
そこを軍医部が集会所として接収したのです。軍医部の脇田大佐と知り合い、その情実で、召集からはまぬがれました。「本来なら君も行くべきだが、それを免ずるから、台湾に行って来い」と云うのです。鏡原小学校にある陸軍病院にマラリア患者があふれ、その患者たちを移動させるに担架が必要だが足りない。医薬品も欠乏している。台北帝大の医学部の分室まで行きその不足している物資をとって来るように云われました。

 暁部隊と呼んでいた船舶隊の川辺大佐にかけ合い小型の機帆船が用意されました。当時、町会議員をしていた嵩原重夫が、疎開している町民の視察と云う名目で同乗する事を申し込んできました。船が出ることを知って織物組合長をしていた座間味朝幸氏がたずねて来ました。宮古には生活物資が払底しているし、ついでに何か買って来た方が良いと云うのです。

 織物組合の金を使って呉れないかと当時の金で五万円、寝耳に水です。好きなように使って、タバコ、紙類を買って来て呉れと云うのです。どんな世の中に変わるかも知れんから二万円だけあずかろう、そうでないとあなたの身のあかしが立たん。但し、ひんぴんと船が沈没させられているし、二万円あずかっても、それだけの品物をあなたにとどけるという確実な約束は出来かねる。ここはいちかばちか、あなたは二万円出す。

 私は命がけで行く。事の成功、不成功は問わぬと云う一札を入れろと云いました。それはその通りだと云う事でしたが、言葉だけでなく必ず一札入れろ入れさせられました。私と嵩原氏の二人だけを乗船させ、三日後、無事台北につきました。台北駅前にあった医学部分室で話しをつけ、台南の陸軍病院から担架と薬品類がとどけられました。

 キールン港から暁部隊が別の船を仕立てる事になり、私はその間に宮古から来ている疎開者のいる所をたずねたり、物資の買入れをしました。宮古への船がある事を知り、当時の伊良部村長の友利カツ、城辺村長の友利正春、下地村長の下地恵知氏が乗船し、朝鮮人の慰安婦53名を乗船させ、キールン港を出港しました。軍人二人が、その慰安婦たちについて来ました。

 キールン港を出て、午前の四時頃シャリョウ町の桟橋の沖合一海里くらいにさしかかった時、同乗した村長三人が船長室のキャビンに集まり、昨夜の夢見が悪い、船がポンポンやられる夢を見た。そこの桟橋に船をつけておろして呉れる様、交渉してくれと云うのです。船長にその旨告げると、軍命令で動かしている船を、予定にない勝手な場所につけるわけには行かん、強いておりるならそこからおりて泳げと云うのです。桟橋から百メートルくらい沖を通り始めました。伊良部の村長をのぞけば五十歳すぎのひとたちがとびこんで泳いで行きました。結局、民家人は私と慰安婦たちが残りました。

 翌日の夜明け前に与那国に着きました。そこには船をつける岸壁がないから、霧が晴れてから入港しようと、港外に船を止めました。
 夜が明けそめる頃、北の方から飛行機が一機来ました。アメリカの飛行機なら編隊を組んで来るし、こんな小さな機帆船でも日本軍は守ってくれるんだ、ありがたいもんだと、甲板に出て、朝の空気を良い気持ちで吸っていました。慰安婦達はハンカチを振って飛行機を見ていました。北西の方向に来ると、日本の飛行機ではない!急降下してくるのです。くもの子を散らす様に甲板に散って船底にもぐったのです。いつでも日本軍が守る云う事だったしそれを過信していました。
 
 最初の銃撃で十数名慰安婦たちがたおれました。甲板の上には逃げおくれた女たちがなきわめいているのです。第一波の攻撃がすんだと思うとくりかえしおそいかかって来るのです。どうしたら命が助かるかと水タンクに腰をおしつけてふるえている私の右側に二人、左側に一人、朝鮮の女性がふるえて身動きできないでいるのです。三回目の銃撃の時、ロケット発射と同時に破片らしきものが私の上衣のボタンを砕き左手にいた女性の胸部を貫くのです。ふりむく間もないあっと云う間の出来事で、ほとんど即死です。

 発射されたロケット弾が機関部命中したらしく、黒煙が上がりました。それでも飛行機は去りません。このまま船上にいては、船もろとも沈められしまうと、甲板をかけ出しました。慰安婦たちについて来たシモワキと云う曹長が血まみれなり甲板にころがっていました。肩からかけていた皮袋のカバンを頼むと云うのです。それをうけとるなり、海へとびこみました。船はアンカーをおろしていたのでそのロープの方へたどりつき、それにすがりながら飛行機の来る方向から体をかくしました。だれかが先にイカダを梅へ落としていたらしくそれにすがりつく慰安婦たちが片方だけにすがりついたため、イカダが転覆し、アイゴー、アイゴーと叫びながらおぼれていくのです。

 六回襲いかかったのち攻撃が遠のいたと思います。すきをねらって岸の方へ泳ぎだしましたが、だんだん疲れて来るので寝泳ぎに変えました。何かが足にふれました。足に力を入れて見たら砂地です。体を反転させると足が地につく。ひざくらいの所を必死に泳いでいたのです。助かったと思うと、涙がポロポロこぼれて来ました。

 久部良の警報団の人たちが沖の修羅場を見ていた様ですが、執拗に攻撃している飛行機を見て、手がつけられないまま、見ているだけだったと云うのです。ふらふらしながら、たどりついた私を見て、まだ生きている者がいると云うことで、救助作業が始まりました。くり舟を出して死んだ人たちを運んで来ました。生き残った朝鮮の女性は七名だけでした。この人たちは好き好んでイアンビーになったわけではない。日本の強権でつれてこられた人たちだったのです。

 湾になった港のつけ根の所に小高い砂地の丘があった。50体程、アダンの枝を集めて火葬し、その丘に骨を埋葬しました。生き残った女性たちから名前をきき三文字の姓名を記し簡単な墓標を立てました。宮里さんと云う漁業組合長が警防団長も兼ねていて、その人が世話役になっていました。

 宮崎武之と云う師団長の所へ、曹長から託された皮のカバンをとどけました。何が入っているかは見ませんでした。師団長は民家の良いかめの家に住んでいて、しばらく静養して行けと云っていました。生き残った7名の慰安婦をつれて伊良部島に着きました。伊良部青年学校には与那覇春吉氏が校長をしていて、台湾から着いたと云う事を聞いて疎開させていた妻子の消息を聞きに来ていた。アンペラ一枚が、一世帯のスペース。
 
 冬の寒さにこたえていた旨、冷えと栄養失調で宮古へつれて帰ってくれと泣いてすがる苦労の様子を若かったせいもあってありのまま話したら、春吉先生はシワブリ(心配のあまり意気消沈)している。奥さんの眼が悪化したのも、あの時の栄養失調が原因をしていると思う。

 伊良部島を経て、着のみ着のまま宮古島に着き、七名の慰安婦を野原越の師団管理部へ連れて行きました。慰安所が今の沖縄食糧会社の西隣、西里、野原越にありました。野原越の管理部は垣花恵栄宅にありました。兵隊の性欲と云うのはそんなに強いものだおるか、連日、列をなして順番を待っていました。担架と薬品をとりに行って、それははたさず、二万円の物資は無一物となり、朝鮮の女性7名をつれて帰ったわけです。

 二十年五月、もう、町の中は無人化し、城辺村の字友利に疎開しました。農家の馬小屋を借りてそこを診療所にしました。地方に行く程、物資があるのです。白米、缶詰類が。将校たちも治療に来るのですが、治療は二の次で、昼間から持参した日本酒を、私の借家で飲んでいました。軍規は乱れていたのです。

 五月4日、友利そこばりから、東の海に、黒と灰色の軍艦がズラリと海を圧する様に浮かんでいる。艦上の人の動きがわかる。いよいよ、最後だと、青酸カリを前もって用意していたから、上陸して来たら、これを飲んだら、”きれいになる”(楽に死ねる)からと老母と妹に一包みずつ渡し、壕に入れた。いっせいに砲門を開き、頭の上を、すずめが群がる様な音を立てて砲弾が飛んで行く。三十分くらい間断なくその音が続いて、前方の軍艦が、北に動く。平安名崎の方に向いている。そこから、上陸して来るのだと心配していたら、そのまま北上して行った。


 つづきがあります。

 (オキナワ戦の女たち 朝鮮人慰安婦から)証言です。

現在の久部良港
  
タグ :慰安婦


Posted by 与那国イソバの会 at 20:36Comments(0)与那国島

2012年02月24日

「アイゴー」と泣きわめく慰安婦達の声が・・・

与那国島の久部良で米軍機に襲撃された時の朝鮮人「従軍慰安婦」達の叫び。慰安婦達は、台湾の基隆(キールン)から宮古島へ移送の途中、与那国島でのできごと。
現在これを知る人達はいるのだろうか?周りに聞いてみたが、ほとんどの人が知らなかった。こんな悲しいできごとが、与那国島で起きていたなんて。



与那国島で虐殺された朝鮮人「従軍慰安婦」   編集 長田 勇氏

はじめに

 「沖縄県史、沖縄戦記録2」に、与那国島における「朝鮮人慰安婦の遭難」という宮古島の軍医の池村恒正さんの聞き書きの記録がある。
 それによると1944年12月に、台湾から宮古島に連行されようとした朝鮮人「従軍慰安婦」53名が与那国島の久部良港でアメリカの艦載機による機銃掃射とロケット弾によって46名が虐殺された。
 久部良港のつけ根の小高い砂地の丘に、約50体の遺体をアダンの枝を集めて火葬し、ガマの中に埋葬された。殺された女性の姓名を記し簡単な墓標が立てられた。

 「朝鮮人女性たちの骨は丘のガマの中に葬ったままのであろうか」と池村さんは語っている。


久部良部落 

 与那国島は、1944年10月13日に久部良南部部落がアメリカ軍の空襲により、106戸が全焼した。与那国島初の空襲である。3名が銃撃で死亡、3名が防空壕で焼死した。住民は久部良岳のダヤ(ガマ)に避難した。
 また12月31日には、アメリカ軍の空襲で久部良北部落が全焼した。

台湾・基隆港
 
 制空権をアメリカに握られている中で、1944年末、朝鮮人「慰安婦」53名を乗せた暁部隊の機帆船は、台湾の基隆(キールン)港(当時は日本軍の軍港で、付近一帯は要塞地区になっていた。基隆の人口8万7400名中、日本人は焼く2万人もいた)を夜に出港、翌日夜明け前に久部良港に着いた。
 入港して、また夜出港する予定だったのであろう。しかし先に見たように久部良部落は全焼、住民は久部良岳のダヤに避難していたが、郡から連絡を受けた久部良の警防団がこの暁部隊を迎えに出ていた。
 「慰安婦」は軍の機密事項であり、住民の目にふれないように軍の命令によって警防団は遺体をサバニで引き揚げ、火葬したと思われる。与那国島の直接戦争死亡者は「38名」と記録されており、朝鮮人「慰安婦」46名はどこにも記録はない。

宮古島の慰安所

 さて朝鮮人「慰安婦」たちが、台湾から強制連行されようとした行き先地宮古島は、大体営が1944年7月から1945年2月までに、「米軍が宮古島に上陸する」と判断して、約3万人の軍隊を派遣した島である。この部隊配置にあわせて「慰安所」が次々とつくられ16か所におよんだ。そして中国から朝鮮から台湾から「慰安婦」たちは連行されたのである。


    つづく  
タグ :従軍慰安婦


Posted by 与那国イソバの会 at 21:02Comments(0)与那国島

2012年02月10日

この島をあけわたすの?

 島外に住むドゥナントゥ・尚子さんより、心からの叫び・メッセージが届きました。



  この島をあけわたすの?
 私達のこの島が、未来にどんな姿となって残るのか?
今は、その分かれ目です。
”自衛隊配備” この目的は「与那国町の人口を増やす」ことだそうです。

人口を増やす道は沢山あります。実際、この日本列島には、その地の良さを保ち続けて効果を上げている例が幾らでもあります。
 さて、防衛省の発表によると、配備人員数100人以上の人達がドン!と入ってきます。


 キケン!!  キケン!!
 何がキケンか? 明言できます。島が元に戻ることが、できない姿になってしまう。



  ナゼか?
  この与那国島において、島の人の心や暮らし方は長い時間の中で変わっているようで、根底ではさほど変わっておりません。
それは島の人自身が多くの事を自ら決めて、一歩一歩進むという穏やかな変化であったから。
100人の自衛隊員とその家族はじめ関係者が、島の未来を決めることになる時、当然ながら島は防衛省の好む姿へと変身するのです。激変です!

 ごく短期間でそうなることは、先行地域において地方らしさを失った人々が、無力感を憶え、そして悩んでいる事で明らかです。後悔が深い心のキズとなっています。そうなると恋しいはずの島にはもう戻れません。
 この与那国島が、こんな運命をたどるの?
あけわたすの?
 
 年齢や世代、性別、そんな区分を超えて、誰もが本気でこの島の未来を考え、「あけわたしてよいのか?」の判断を求められています。
 島に住む人、島外に住む人に関わらず、多くの人が必死に「こんなことがあってはならない!」と叫んでいるのが現実です。

みんなして次の声を共有すべきではないだろうか?
 昨年の毎日新聞に載っていた牧野トヨ様の痛烈な戦争体験者の叫び。
「備えのないところには弾はこない。
           備えのあるところに弾は来る。」
 

  馬や牛がのんびりと草を食む与那国島に住みますか?

  軍隊と砲弾に荒らされない与那国島に住みますか?


               by 尚子



  


Posted by 与那国イソバの会 at 21:34Comments(8)島外より

2012年02月05日

失くしてはいけない!

与那国島の美しい風景を失くしてはいけない。

南牧場から比川地区へ走ると、この美しい荒々しい海が見える。そう簡単に島に近寄ることはできない。



長命草を収穫する農家の人達です。


真面目に生きているのです。一時の金に惑わされるのではなく、地味ではあるけど着実に得る幸せもある。

平和の与那国島を子々孫々まで伝えよう!  


Posted by 与那国イソバの会 at 17:58Comments(0)与那国島

2012年02月05日

失くしてはいけない!

この美しい風景を見て何を想う?

久部良港、最西端にある灯台。

今日、撮り立ての風景です・・・

与那国の刺身といえば、やはり「カジキ」でしょう。平和だからこそ、海の幸も頂けるのです。

7月には、「国際カジキ釣り大会」が毎年開催され、島は盛り上がります。

この島の風景、ひとつでも欠くことはできない。

これが町民の気持ちです。  


Posted by 与那国イソバの会 at 17:40Comments(0)与那国島

2012年02月03日

戦争にもルールがある!

こんにちは!
今日はとても寒かったですね。
体調に気をつけましょう!




さて、みなさん知ってました?

戦争にもルールがあるってことを!

戦時国際法(武力紛争法、国際人道法とも呼ぶ)という法律があり、
戦争する時もルールを守らなければいけないって。

例えば陸戦法規(陸上作戦における武力行使についての原則)には

攻撃目標の選定の原則は、敵の戦闘員か、軍事目標(野戦陣地、軍事基地、兵器、軍需物資など)
に定められる。
文民、降伏者、負傷者などの非戦闘員や病院、宗教施設、原子力発電所などの民用物を
攻撃しては ならない。

ってことは、基地があれば攻撃目標になり 丸腰でいれば攻撃されることはないんじゃないの!

ここ与那国島は自然が豊かで穏やかな空気の流れる魅力ある素朴な島であり
石油や天然ガス、レアアースなどが採れるといった質の島でもないんです。

中国、台湾が攻めてくる可能性など全くありませんよ!
中国が 日本、アメリカ、いや世界を敵にまわしてまでも
与那国を侵略しにくるかな?
それより日本を特に沖縄を食い物にしている米軍の侵略のほうが現実めいてるのでは・・・


ぜったい先島に基地をいれてはダメだよ!

軍需産業界に操られてる政治家、マスメディアに惑わされないよう気をつけようね!  


Posted by 与那国イソバの会 at 23:30Comments(4)自衛隊誘致反対